2015年5月7日木曜日

身延線と女

 無職の私にはGWとか関係ないのだが、3日間、焚火とゴルジュをしてきた。

 朝4時に起きて慌ただしく支度をし、JRの春日井駅から中央本線に乗り込み、長野の小淵沢を目指した。小淵沢に住む39歳の女子と沢登りの約束をしたのだ。
中津川で乗り換えると、そこから塩尻までの区間はワンマン列車になり、木曽川沿いの静かな列車の旅となる。特急しなの待ちや、すれ違い列車待ちで列車はたびたび駅に10分程停車した。近くに60代半ばぐらいのおっさんが二人座っていた。おっさん達は日帰りザックと山用ストックを持っていてトレッキングシューズを履いている。どうも彼らは列車でたまたま出会った2人のようだが、中山道歩きで意気投合し、極めて大きな声で峠がどうのこうのという話を繰り返していた。
 私の対面には90歳ぐらいのしわくちゃのババァが座っていて、私のボロボロで巨大なザックを見て「何処の山に登るの?」と声をかけられた。「福士川ゴルジュに沢登りに行きます」と答えたところで通じないだろうから、富士山の近くの山へハイキングへ行きますと答えておいた。
 私はこう見えて、ババァと話すのは嫌いではないので、最初は会話を楽しんでいたが、列車のあまりに遅い進行速度と、度重なる停車に膀胱がかなり膨れ上がっていた。小便がしたかった。
 そこらへんのトレッキング客に紛れて列車を降りて小便をすることも可能だが、ババァに山梨まで行くと言った手前、途中で降りるのは「あ、この小僧小便の為に降りるのだ」と思われてしまうのも癪だし、1時間に1本とか、時間帯によっては2時間待ちをするこの列車から降りてしまうと、約束の時間に大きく遅れてしまう。ババァの会話を適当に流し、隣のジジィのでかい声での東海道話にイライラしながら、塩尻までの長時間を我慢していた。
 塩尻に着くと、急いでトイレに駆け込み、放尿し、小淵沢行きの列車に飛び乗った。
 小淵沢駅から降りると、39歳の女子が待っていた。この39歳の女子とは昨夏、山関係の仕事で知り合い、先日も偶然、山関係の仕事で出会った。仕事の合間に沢登りのことを話していたら、「行きたい、連れて行って」という話になったので、今回のゴルジュ焚き火を実行することになった。「今度、下界の職場に遊びに行く」とか「山から降りたら一緒に沢登りに行こう」などというのは、リップサービスというか、社交辞令的な会話であって、実際には実行に移されないということが普通かと思うが、私は行くと言った以上7割ぐらいは実行するタイプであって、山から降りたらすぐに連絡をし、約束したのだ。時間あるし。

 39歳女子と合流した後、彼女の家に行って沢登りの準備をした。計画時に彼女に対し、事前にハーネス、つまりクライミングで使う安全帯を持っているかと尋ねたところ、持っているということだった。だから、彼女が沢登り未経験だということは分かっていたが、クライミングに関しては数回やったことがあるものだと思っていた。クライミングの最低限の知識、懸垂下降とかビレイ(ロープ操作)に関しては知っているものだと思っていた。
 しかし現場でいざ彼女のハーネスを見てみると新品だったのである。しかも、ハーネスにはカラビナがついておらず、ハーネス単体しか持っていないのだ。普通、ハーネスにはビレイ器というロープを操作する為の特殊な道具や、カラビナやスリングといった最低限必要な道具を付けているものだが、彼女はそれを持っていなかった。カラビナというクライミングをしない人でも知っている単語の理解度すら危ういレベルである。にもかかわらず、ハーネス単体だけを持って、ドヤ顔をしているのだ。この39歳女子は初心者というより、ハーネス持っているだけの素人だった。
 クライミングも沢登りも初心者だということは知っていたが、ここまで素人だったとは……。とはいえ、まぁ、なんとかなるだろうと思い、予定通り目的の福士川ゴルジュに行くことにした。




 福士川ゴルジュは、簡単でお気楽だが、初心者向けというには難しい部類に入る。過去の記録もほとんどなく、ネットで調べてもここ10年の遡行記録は出てこなかった。ただ、隣に遊歩道や林道があることから、ゴルジュ突破が駄目でも、なんとかなるだろうと思ってセレクトしたのだ。基本的には焚火をしながら酒を飲み、ゴルジュってこういうもんなんや、ということを知って頂ければ幸いなイベントだったのだ。

 ゴルジュに向かう途中、立ち寄った山梨で小屋作りに勤しむ友人の家でうだうだ立ち話をしてしまい、入渓が午後4時と遅れた。入渓点の釣堀の駐車場の親父からは、「この川は険しくてすっごい岩やねんで!遭難騒ぎとか勘弁してくれ」と言われたので、「ワイはこの道10年以上で、この業界では有名なすげぇ奴なんやで!」と自ら説明して、ロープやハーケンやらをジャラジャラと見せびらかし、「平気ですわ!」ということをアピールした。ちょっと恥ずかしいが、僻地のゴルジュを遡行する場合、こういうアピールをやっておかなかった為に、下の集落のおっさんに遭難したと思われて警察に通報されることは、たまにある。僕はそれでヘリまで飛ばされそうになった過去があり、敏感なのだ。

 初日はゴルジュ手前の河原で、ツェルトをタープ替りに張り、雨の中焚火をし、盛大に飲んだ。いきなり雨の中でタープ一丁で泊まるのは、女子にはハードかと思ったが、39歳女子はそれなりに楽しんでくれたらしい。

 2日目にゴルジュに突入した。たおやかな田舎な里山にあって、思った以上にハードゴルジュであった。そもそも5月の頭にゴルジュを泳いで突破するなど、僕でもほとんどやったことはない。水は多いし、冷たいし、本気で泳ぐ必要もあり、けっこう痺れた。でも、素人である39歳女子は、沢登りとはこういうもんだと思ったらしく、楽しんでいたようだ。「若いころに出会っていたら、絶対に沢にのめり込んでいた」と、有難い言葉も頂いた。沢ヤとしては嬉しい。

 なんやかんやと、いろいろ時間がかかり、最初のゴルジュを突破したところで、焚火をし昼寝をし、もう残りのゴルジュは面倒くさいから、一回、遊歩道で戻って酒を買い足し、飲みながら焚火をしようということになった。ちなみに、充てにしていた遊歩道は、土砂崩れでいたるところが崩壊しており、懸垂下降まで有し、ゴルジュ本体より不確定要素が高く、「やべぇ、こんなところで女怪我させたら洒落にならんわ」と、かなり緊張した。

 入渓点に戻り、集落の商店(謎の書類の下に商品が置いてある凄い店)で酒を買いたし、再び沢に入った。2日目の晩は雨は降らないだろうから、ツェルトとかテントとかチャラいものを使わず、オープンビバークで寝ようという話になった。
 たまたま39歳の女子が持って来ていたシェラフがモンベルで、僕もモンベルのペナペナのシェラフを持って来ていた。モンベルのシェラフは、2つのシェラフを連結して一つにでき、それで二人で一つのシェラフに寝れるようになっている。
 39歳女子が「連結シェラフで、男子と2人で寝るのが夢だったの」と言い出したので、連結したシェラフで2人で寝た。僕としても連結シェラフで女子と二人で焚火の側で寝るのは夢であったのでそれに応じた。もっと若い女子が良かったと思ってはいたが。
 僕が初めて連結シェラフで寝たのは、名古屋のモンベルでの店頭だった。35才の主婦と、カラコルム遠征前に連結シェラフの具合を確かめたいと無理やり付き合ってもらったのだ。二度目はカラコルム・パキスタンチャラクサ氷河でのクライミングでの本番だった。今井犬歯と中島けんろうという、今を時めくスーパークライマー達と魂のこもった登攀をし、氷壁にぶら下がるように男3人でひとつのシェラフで抱き合いながら寝た。
 3度目、このようなタイミングで、彼女でもなんでもない女子と、プライベートのゆるい山行で一緒に1シェラフで寝ることになるとは・・・・・・。人生とはよく分からんものである。
 浴びるように酒を飲み、2人で重なるように眠った。朝起きると、10メートル先に釣師のおっさんの釣竿の先端が見えた。ちょっと恥ずかしかった。

 ちなみに、重なるように眠ったと言っても、今回そこで卑猥な行為は行われていないし、これをきっかけに恋に発展ということもない、と思う。これは誓って言うので、関係者はこの件で後から僕をからかうようなことはしないように。頼むから。(じゃあ書くなよって話だが)

 沢を後にし、身延線に乗り込み、富士を眺めた。今年の富士山は雪解けが早い。数か月後、富士の仕事でまた39歳女子と会い、御来光のコーヒーを御馳走になるのだろうな。


 インサマー!今年もゴルジュの季節がやってきた!



身延線から東海道を、途中下車しながらぶらぶら帰ったが、なにわのエリカ様こと上西議員のような化粧の女が結構多いなぁと思った。



2015年5月3日日曜日

タコ部屋

タコ部屋労働
  1. タコ部屋労働(タコべやろうどう)とは、主に戦前の北海道で、労働者をかなりの期間身体的に拘束して行われた非人間的環境下における過酷な肉体労働である。 タコ部屋労働で使役された労働者をタコと呼び、タコを監禁した部屋タコ部屋(ないしは監獄部屋)と呼ぶ。 タコ部屋タコ部屋労働環境そのものを意味することもあった。 類似した状況は九州の炭田地帯にも見られ、納屋制度と呼ばれていた。(wiki)
 2週間ほど4畳一間におっさん4人で寝泊まりという集団労働をしてきた。とはいえ、あくまで短期の期間労働であって、タコ部屋と言える程の過酷さはない。飯も美味かったし、酒もたらふく飲んだ。おまけに飲み過ぎかつ山談義が熱くなりすぎて、「山っていうのはなぁ、うんぬん(中略)殺すぞ!!コラ!」と大先輩である超有名クライマーの胸倉をつかんで暴れていたらしい。
 その件のあと、なんとなくなのだが、普段はできない体験がしたくなって自分の仕事以外のことを手伝うようになった。12時まで飲んでいても朝5時には起きて厨房の手伝いをしたのだ。
 そんな僕の姿を見た同部屋のおっさんから、「どうしたんですか?舐め太郎さん。”殺すぞ事件”から人が変わったように働いていますね」と言われたので、「おいおい、それじゃ俺が反省して頑張ってるみたいじゃねーか!」と啖呵を切ると、「舐め太郎さん、今時アウトローキャラは流行らないですよ」と突っ込まれた。ちょっと照れた。
 僕は普段ライターを名乗っているが、基本的にはただの無職ゆえ、このような労働にちょこちょこ携わらせてもらいながら、生きていく為の糧を得ている。

 昨年は日本で一番酸素の薄い場所にある6畳一間に、むさくるしいガテン系親父12人という構成で寝泊まり労働をしていた。100キロぐらいの鉄板を右から左に運んだり、巨岩を大ハンマーで砕いて、その岩を右から左に運搬していた。そのときの飯は酷いものだった。インスタントラーメンを食べるにも、高所で水の沸点が低く時間もない故、50~60度ぐらいと、なんとなく暖かくなった湯をラーメンに注ぎ、ガリガリと齧った。このとき、「許せる温度の湯」というワードが生まれたのだが、ラーメンを作るのにはどう考えても許せない温度なのだ。胃が気持ち悪くなり、食えない者もいた。ラーメンが食えなくなったら、ガビガビのパンを食うしかない。

 そんな一見するとシベリアの強制労働を思わせる過酷な肉体労働も、不思議なもので短期であれば非日常的な初期衝動の感動によって楽しい行為として乗り切れる。粗末な飯を齧り、風呂にも入れず夜明けから夜更けまで働きながら、「どっちが重い石を運べるか競争だ」とか男子特有の競争が働き熱くなるのだ。「最低の労働環境だわ、二度とこんなことやるか!」と、自虐的なネタをゲラゲラ笑いながら楽しむ余裕もある。

 これが一生となるとそうはいかない。大手の印刷会社にいた頃は、家から会社に通っていたにも関わらず、一日30時間はザラに働いていたので、あの頃の方がタコ部屋感があった。2徹3徹も、今だけの労働だと思えば耐えられるが、これが一生続くのかと想像したときに絶望を覚えるのである。そう考えると、今の私はずいぶんと幸せな環境で生きていて、充実しているのだ。

 充実といえば、昨夜、友人の結婚パーティーに参加した。新郎新婦がDJを勤めるオシャンティーなBARで、スパークリングワイン片手に幸せを祝ったのだ。32年生きているが、人様の結婚を祝いにいくのは2回目である。
 そこで、友人みんなが結婚して幸せであるのに気づいた。「いいなぁ、どうしたらモテるの?結婚できるの?幸せな人生を築けるの?」と、ルサンチマン溢れる質問をしてみたところ、「舐めさん、実際のところモテるでしょ?」「あなたの人生は普通の人は羨みますよ」「嫌味に聞こえるから、そろそろそのネタできないですね」とdisられてしまった。確かに、その通りなのかもしれない。
 今この時代、サラリーマンをするより、酸素の薄い場所で鉄板や巨岩を運びながら労働するということの方が難しいし、ましてやアジアのジャングルを46日間もさ迷ったり、国内外の未踏の岩壁に挑戦しまくるっていうのは羨ましい話のはずだ。
 だからといってモテてはいないけどな。


追伸。ある人からアドバイスを貰って、今日から”沢ヤの・舐め太郎”と、”舐め太郎”に苗字を付けることになった。
 ここ数週間、新しい出会いが多くあり、舐め太郎の名前の由来を聞かれることが多々あった。その都度、舐め太郎の名前の由来を説明した。僕が舐め太郎を名乗り始めたのは12年前になる。そのときは”ドアノブ舐め太郎”と名乗っていた。これは検索されても重複しないワードということで名付けたのもだ。卑猥で胡散臭い僕のイメージとしての”舐め太郎”に、まず舐めないであろう物体である”ドアノブ”を付け足したのだ。系統としてはアントニオ猪木とか、マサ斎藤とか、プロレス的なネーミングだ。年月がたち、いつしかドアノブは省略され、ここ5年ぐらいは舐め太郎で通していた。

2012年に「ドアノブ少女」という、美少女がドアノブを舐めている写真集が発売されたのだが、僕のドアノブ舐め太郎が元ネタなんじゃないかと思い、少しだけ悔しい思いをしている。



沢ヤの舐め太郎